3・11と浪江町

東日本大震災と浪江町

FUKUSHIMA NAMIE

東日本大震災

2011(平成23)年3月11日(金)14時46分、宮城県牡鹿半島の東南東沖130kmを震源とするマグニチュード9.0の地震が発生。この地震による津波は高さ10m以上(最大40.1m)にのぼり、太平洋沿岸部を広範囲に呑み込みました。

『なみえ母・娘物語』より

福島第一原子力発電所の事故

地震の発生から約1時間後、津波は東京電力福島第一原子力発電所(イチエフ)を襲いました。これによりイチエフの1~5号機が電源を喪失。原子炉の冷却ができなくなり1号炉・2号炉・3号炉でメルトダウン(炉心溶融)が発生。
2011年3月12日15時36分頃、1号炉付近で水素ガスが爆発。大量の放射能を放出し、周辺への立ち入りが禁止されました。

『なみえ母・娘物語』より

浪江町

浪江町は福島県双葉郡の町です。大阪市とほぼ同じ223平方kmの土地に、大阪市の130分の1にあたる約2万1000人が暮らしていました。2011年3月10日までは――。

『なみえ母・娘物語』より

2011年3月11日、太平洋沿岸部を広範囲に呑み込んだ津波は浪江町の沿岸部にも壊滅的な被害をもたらしました。波が引き、瓦礫に埋もれた人々を救おうと町の消防団の人々は懸命の捜索を行いました。ところが3月12日のイチエフ1号炉爆発で国の避難指示が原発10km圏に拡大、消防団員による捜査活動は無念の中断を余儀なくされました。
*このときの浪江消防団員たちの心の揺れを描いた作品が浪江まち物語つたえ隊の代表作・浪江消防団物語『無念』となりました。

『無念』より

避難指示は3月14日、20キロ圏に拡大しました。そして3月15日、4号炉水素爆発。
翌4月11日には30キロ圏内が計画避難区域に指定され、30キロ圏外も緊急時避難準備区域に指定されました。
浪江町は福島第一原子力発電所から、もっとも近いところで約4km、浪江町役場まで約8km、津島支所までは約30kmです。最終的に浪江町のほとんどの人は、着の身、着のままで町をあとにしました。

『ちち牛物語』より 『ちち牛物語』より

浪江町の全域に出されていた避難指示は今年2017年3月31日、「帰還困難区域」を除く区域で解除されました。

そして今、浪江の人々は…

NAMIE-MACHI

2017年4月1日、避難指示が解除された地域は浪江町全体の面積からすると決して広くはありません。

しかし、海に面したその地域は、かつて町民の4割が暮らしたふるさと。

「帰っていいよ」といわれても、6年以上、人の立ち入りが制限されたまちは、野生化した家畜やペット、本当の野生動物、野の草花の天下となっていました。

また、福島第一原子力発電所から放出された放射性物質の影響もあり、簡単に「帰っていいよ」「はい、帰ります」と生活を始められる状況ではありません。

国が補償してくれる除染作業も、土をはがす直前の状態まで被災者自身が手をかけなければ作業に入ってもらえません。

由緒ある建物を壊すのか、丁寧に除染をして修繕するのか、それとも更地にして手放すのか、新しく建て直すのか…。

結局、最後のもっとも重い決断は個々の被災者がするしかありません。

「帰っていいよ」といわれた浪江の人々は今、まさに「帰る」「帰らない」の決断を強いられています。

代々使われてきた蔵と納屋を解体すると決断した浪江町のOさん宅
代々使われてきた蔵と納屋を解体すると決断した浪江町のOさん宅
代々使われてきた蔵と納屋を解体すると決断した浪江町のOさん宅
代々使われてきた蔵と納屋を解体すると決断した浪江町のOさん宅

代々使われてきた蔵と納屋を解体すると決断した浪江町のOさん宅。

「わかっていたけど、無くなっちゃった。建物がないと広いな。ぽかんとした気持ちです。昨日と今日の違いだけなのに、今日から通行証が必要ないのも、なんだか不思議。避難指示が解除されたからといって、この6年半がなかったことにはなりませんよね。朽ち果てていく家、家、家…。雑草だらけの庭、悲しいです」